読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

『「生」と「死」の取扱説明書』

あるところで、苫米地氏を薦められたので

 

『「生」と「死」の取扱説明書』

苫米地英人 著

を読んで見ました。2010年とかの本なので今さら迷惑かも知れないけど。

(以下私の日記から)

数学的にそう記述できたからと言って、それで説明できたことにはならない。もしかしたら、それは数学的整合性を取るためにほころびを補修する人間がいてはじめて成立していることなのではないか。

 

あるいは、不確定性原理に基づいて式に矛盾を実装できたからと言って、素粒子の振る舞いを説明できたことにはならないのと同じだ。それは単にプロポーショナルにそうなのであって、実際そうとは限らない。

 

そうした場合、それは常に、より高い次元の意識が他の次元との照合を行っていると言うことにならないか?

 

であれば、場合によっては自我意識を宇宙と重ねてみるのはおかしい。宇宙の外は得体が知れないのであり、その外部を知るには絶えず内部の変動を知らねばならぬ公算になるので、これではまるで生理不順ばかり気にしている女である。

 

やはり、外部に向かって放たれる運動性にこそ男性性があって、これには重力子の発見を待たねばならない。

 

闘争と探索がひとつになる時、これこそが人類であり、進化が起こるのではないだろうか?

 

「中観」の説明は、女になったつもりで豪快にオナニーすることに価値を見出すこと、とも読み替えられる。これでいいのかな???

 

自我安定性は、親の総資産を知ることー自分の位置する階層を自覚することーから始まるのであって、すべてがお金に換算できる資本主義の世の中で、宗教を唱えるのは、本来、おかしいはずである。私有財を放棄した時点で、その宗教集団がすべてになってしまうことは明らかで、自我安定性が教祖様の一言で激震することになる。

 

例え、妄想としてであれ、信仰は洗脳であり、一般社会から離脱することである。

 

人間にとっての最終権利とは、文明社会の禁じる殺人のことであり、これを果たさんがために己も死ぬのである。また、臨死体験も死後の世界の一部であり、部分的な死ではないだろうか?

 

人は、憧れではなく、目的そのもののために生きる時、場合によっては、殺人を目的として死を恐れなくなるのである。これが戦争ではないだろうか?