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のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

宇宙の平和と幻聴の力は芸術を破壊する―を越えて

(前回から引き続き)聴覚における空ぶかし、は何を意味するのだろう?

これには、当事者の直感として、逆説的に、カクテル・パーティ効果が関係していそうだと考えられる。聴覚で探すよりも、私はかつて絵を描きたかった時期があるので、絵画の方面から推察するのも悪くない。

 

 

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理研BSIニュース No.23(2004年2月号)

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Brain Network
Dr. Cees van Leeuwen
知覚交替の中に隠されているものは?
知覚という曖昧な存在の複雑な実体

認知動力学研究チーム
チームリーダー Dr. Cees van Leeuwen

 

つまり、この論文におけるサッケード運動や知覚交代、が、聴覚での空ぶかし、に似ていると思うのだ。

 

ここにおける知覚交代は、平面上での図形の向きにおいて発現しているが、もっと深掘り方向で、多数の空間の寄せ集めとして、複数の絵●の集合体として一枚の絵画を構想するような時、前後を中心とした押引きの関係性においても知覚交代が発現する場合、いわゆる美大受験予備校の色面の絵画になって来るのだと考えられる。いわば、視覚のカクテル・パーティ効果である。

 

なるほど、絵画は地と図のせめぎ合いだと主張する者もいる。考えてみれば、昨今のイラストは、何らかの知覚交代があって、せめぎ合ってれば、いいじゃん、みたいなのが多かった(ちょっと辟易している)。具象イメージにおいても、記号性においても、上下が逆さまなのか、ダブルイメージなのか、せめぎ合って判然としない物であればオッケー的な。

 

ある時期は、言語理解の障壁になるような、いわく言い難きモノ、を提示するだけの流行もあった。

 

抽象性とは、まぁ、言ってみれば、その様に意味のフレームや解釈をスライドすることも、模索の段階ではありなのだろう。所詮は『視野の拡がり』である限りにおいて完全な抽象性など期待できないのだから。

 

つまり、聴覚における空ぶかし(の疲労は)、は視覚で言えば、連続サッケード、もしくは、連続知覚交代、の疲労である。脳内にはおそらく認識のフィルターがあるので、オーディオにおける雑音成分までは増幅されない。しかし、疲労があると言うことは、認識以前の知覚の段階で、過剰増幅が起こっている可能性はある。また、一度フォーカスして定位した状態から突き落とされる時の落ち着かなさは、矛盾する命題を突き付けられた時の弁証法的な生産のプロセスの苦しみそのものである。

 

時間の進行と切っても切れない聴覚では、誰しも、否応なしに知覚交代の引力に振り回されることになるのだ。

 

※ちなみに当ブログの背景画像は、この知覚交代を6,7割がたの完成度で追及したもの、本当はもっとこりたかったが、集団ストーカなどに疲れ果ててそのまま提示したものである(笑)。画像の連続性において変なことになっているし、一枚の矩形の中でのバランスとしては偏っているが、まぁ、いいやである。

 

 ※昨今は間違って海外ポルノ動画など飛び込んでくると、ギャラクシー的な知覚交代起こすスーパーインポーズ画像(古)が重ねられた動画があります。あ、これ完全にアメリカ人か何かが、美術系の若者を消しに入ってるな、と分かります(笑)。絵を描くのが生身の人間には苦難の時代ですね(爆笑)。

 

 ※上下が逆さまなのか(分からない)と言うのは、あくまで具体物の不気味さにおいてです。絵には上下がありますよ。そう言うのが認識の扉ですよ。芸術家か脳科学者にでも聞いてください。経験上は誰でも知っていますがね。

 

 ※受動的な聴覚をあえて能動的な視覚プロセスに対応させるとどうなるか考えてみる、と言うのがミソでした。空ぶかしのプロセスで起こっているであろう内容を更に細分化して検討してみる必要性が浮かび上がらないかなぁ?