読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

フルコンが武道ではなく護身術に過ぎないと言う認識が如何なるものか

数日前、レジで釣銭の聴覚的な誤伝達により、再確認の二度手間が起こって、不本意にこちらが一度引かねばならない、などの軽いストレスをかけられるのがうっとおしい、と説明した。

 

カルト教団のせいであろうと思う。囲い込んで障碍者扱いしようとしているのだろう。

 

実はその翌日も別の薬屋でレジにおいて、それをやられた。

 

しかし、今度は、イラッと来た次の瞬間、3人だったかの店員が、同時に”ありがとうございましたぁ!”と斉唱した。

 

これはフワッと精神が持ち上げられ、気持ちの悪いアップダウンがあって、怒りをかく乱される。

 

まるで、その昔、マクドナルドの接客においては、先にバーガーやポテトなどのメイン・ターゲットを注文したお客様に、”ご一緒にお飲み物はいかがですか?”と薦めると、一瞬、その心地よさに酔いしれて適切な判断に迷い、販促を受け入れてしまう、と言った恐ろしいマニュアルまである、と噂されたあれに似ている。

 

そうである、あれである。


自室の周囲の120メートル圏内からの、過剰なミラーリングや、空ぶかしにぶつけ、だの、肩すかし、だの、集団ストーカによるすれ違いざまのヤジだの、結局、ターゲットを始終トレースしてヤジなどにより追憶の循環的なタイムラグや気分のアップダウンをかけて、ストレス状態にし、能力低下を目論むのが目的ではないだろうか?

 

カオス均衡的発展の弁証法原理、入力と出力の認知科学の悪夢がここにまだ生きている。


いまや私は、ユビキタス社会は危険だと思う人間だ。電脳だか何だか知らないが、親と同じ暮らしですら実現しないこんな都会の奴隷になっても何の面白みもないと思う。

 

自分達をすり減らすばかりでなく、敵とも戦わねば、医療人体実験すら碌に出来ないのではないか。

 

戦争をする国家は、実は、人間を自由にスクラップにして研究しているのではないか?

 

権利闘争をしてよいのは、裁判風景などがテレビに露出してもいいモデルケースのみで、その他の一般人は、生存を確保されている時点で感謝しろ、我慢しろ、が現実で、本当は民主主義は、展示物に過ぎないのではないか?かつて助教授も背景でそのような意のことをいくらか囁いた。断定はしないが(カルトは信用ならない!)。

 

生気を無くしてただ生きているだけの精神病患者は、実はモルモットよろしく、投薬テスターにされたり、医者の外科手術の練習台にされたり、不本意な病気を医療によって更に植え付けられるのがオチなのじゃないか?

 

外部に向かって進出せよ!敵は国内に求めるな!である。

 

むしろ外国の軍隊を追い出すのが正攻法なのである。

 

私はユダヤではないし、ユダヤ的ならざるユダヤでもない。

 

変態は私の属性の一つだったかも知れないが、そのことはユダヤ支持を意味しない。