のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

幻ビーカー論3

私が思う時、世界は存在し、私が思わざる時、世界は存在しないのか?

そのように一意専心的である限りにおいて我々は粒子なのか?(はたまた波であるのか?)

 

私は何かであり続けたい。しかし、私は何かでもあったはずの過去ですらすでに誇りである。このようにして私が思うかつての私も、循環の民主主義の一つであって、すでに波の一部なのである。(誇れる過去は粒子的には自慢のコレクションでもあり、波的には経験と言うアドバイスをくれる豊かな海である。一体、幻聴は頭の中の波なのか?頭の外の波なのか?)

 

私は、私であると自覚する時、私を客体化するので、それはちょうど実身(ファイル)が一つ増えることと同じになる。こうして(既出の)宇宙の絶対性の中において、実身(ファイル)過剰の自己が膨張する。この時、宇宙の絶対性は、自己の限りない膨張と存続を支える希望である。こうして思考の有限性は、それが自己であると認識できる限りにおいて、無限の組み合わせの新たな実身(ファイル)の増幅をともなうので、これではネットとのシームレス検索と一緒ともなれば永久機関だろうかとファーストシーズンのブログでは悩んだのである(他人のブログの会話を参考に気がついた)。

 

いわば予約的な、あるいは投機的な自己をも占有空間として考慮しなければならない場合、6万5千実身ではなく、絶対的宇宙が欲しい。

 

前野隆司の著書に言う意識の天動説モデルに立っていると、人は宇宙の絶対性の中にこそ、創造主のような理想的自己がそこにあると安心できる。これが所謂近代的自我の行き着くところなのだろうか?こうなれば絶対的粒子と言う波のあり方はあり得るか?すべての集合を含む集合はあり得るか?と言う問題のようでもある。

 

一体、ライフログとは何であったのか?

 

偏在する波の総体と言う仮想粒子であったのなら、絶対的自己そのものなのであろうか?

 

波が有限ともなれば、それは粒子的であって、もはや波ではない。

 

(実身仮身に閉じ込められた世界は、頭の中の波として良いものか?神経に何らかの振幅を与えると言う意味で、ある種の万華鏡なのだろうか?それもまた循環の民主主義の一員ではあろうが。)

 

あなたはアカシックレコード人工知能の支配する世の中?)と言う箱庭がありえると思うか?

 

ヘーゲル哲学に拠れば、人間の認識は、質量転化の法則によって、個物と類型を交互に経験する。その伝で行くと、粒子はフォーカスすれば、何らかの波であり、その波は、やがて空間の実体と同一の粒子に行き着くのだろうか?(観測が存在に関与する限りにおいて)この時、記憶は、何らかの鏡ではなく、宇宙そのものであるのだろうか?そうなれば、その時、記憶は、平行世界そのものだろうか?それは、もはや細かさにおいて人間の実体をなしていないレベルなので、考えても意味が無く、やはり単に空間の粒子を写し描いた下手な万華鏡に過ぎないだろうか?であれば、結局、宇宙の因果は解明され得ないし、解決され得ないのでは?最後は終末のみとなる?

 

結論としては、完璧なライフログはあり得ない。技術の進歩とともにある何らかのメディアと言うことでしかない。活字が好きかどうかでしかない?

 

 追記1:粒子と波と言う両義性こそが人間の認識の限界性かもしれないのに、一神教と言う中心性の主張は何を意味するのだろうか?悪しき資源集中の拠点や、権力と言う悪として、かつて共産主義者は、攻撃の対象としたそうである。別段、それ自体は疑いも無く、純粋に理想主義的な目標であったとは考えられないだろうか?(自分の足元を掬う事はできるか?のような問になりかねないが。)

 

例えば、我々の3次元宇宙は、テーブルの上の箱のように無造作に存在しているとして、果たして、それ以上の次元の存在は、無造作に箱に対して干渉してくることはあっても、交互作用までするだろうかね?また、テーブルと言うのは3次元空間のアナロジーなので、実際には、そこは人間や動物の住める世界ではないだろう。だとすれば、そのような神は別に人格を持っていなくとも良いはずだ。そんな存在が、果たして箱程度が面白いだろうかね?

 

であれば、成人にとっては、神がインナーお父さんやインナーお母さんであれば、どこか発達年齢がおかしいだろう。むしろそれは、植民地経営者の見栄や理想像が投影されているのである。そして歴史時代の神は、この宇宙に存在しながらこの世界を作ったか、あるいは、この世界は混沌の中から次第に形成された、と言うことまでなのである。誰にも分からないこの世界(あるいはこの宇宙)で、誰かが唯一神教を主張すれば、それは箱庭を造りたいと言う願望の表れでもある。

 

 追記2:人類は長らく、本当は自分達は、自然と切り離され、デザインされた人種に過ぎないのではないかと言う悩みを抱えている。各民族、神の箱庭を造り、粒子と波の両義性に弱い神のロボットを増やし過ぎてしまったのである。我々は、そう言う歴史観から出発しなければならないし、そもそも、キリスト教大学でデザイナーズ・ベビーについて論じると言うのは、何ともはや、難しい相談である(笑)。