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のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

2020年東京オリムピックのエムブレムとHypnosis Whore問題

もしあなたが、絵画は眼で飲む薬、音楽は耳で聴く薬、と言う宗教的な発想に少しでも同意するのなら、以前の私の話は理解しやすいものと思う。また、同意できなくともそれはそれで構わないが、主張は理解されるものと思う。

 

ところで、神経遮断薬は、個別の神経に対する作用機序としては、ドーパミンと呼ばれる神経間伝達物質のレセプターをブロックして過剰増幅を防ぐことにより、興奮を沈め、恒常安定性を得ることになっている。こうしたものの組織的な神経集団である脳全体にも、当然のごとくに同じ作用機序で広範に介入し、精神の安定性や落ち着きが得られるものと考えられているのだろうか?

 

私は、これではベトナム戦争時の枯葉剤級に乱暴な絨毯爆撃ではないかと怒りがおさまらない。

 

さて、ある種の明滅信号により、人が軽い疲労感を覚えることを知ったあなたは、それによって次の刹那に来る過激な画像などを容易く受入れてしまうと言う事実に警戒し始めているかもしれない。

 

これもある種のバウンダリー破壊に匹敵する自意識のフィルターを潜り抜ける技術の一つであろう。

 

そしてこれが組織的な神経集団の働きの結果生じたであろう高度なメディアの発する観念レベルの内容であっても、相反する価値の衝突やその繰り返しによって、人間は疲労し、次に起こる事態を冷徹に判断する能力が弱まる場合があることに気がつくだろう。

 

この論旨の展開は、精神科の神経遮断薬が、全体としては患者の思考を正常に近づけるとする時の論法とさほど変わらないかと思えるのだが、どうだろうか?

 

私は、かつて日本は小泉政権前後よりオカマ国家ジャパンになっていると書いた。オカマ国家ジャパンとは、かつて旅行先で出会った関西人の発した誰かの伝え聞きか、もしくは本人の冗談である。弱体化政策で平和憲法を変えることが出来ないばかりか、エスニックの男性が荒ぶるのをあざ笑う白人至上主義的で中性的な文化を形成している今日の日本には、本当にピッタリな言葉となってしまった。

 

この日本においては、メディア上で、上述のような神経戦によって大衆が扇動されて、あるいは疲労させられて、武装を放棄させられているように思うがどうか。

 

さてファーストシーズンの私のブログで書いたかもしれないが、デッサンのセオリーで、私は、ディフォルメには構築性が大切だと言うこと知っている。漢字の”正”の字で言えば、各辺が90度で直交していれば、これは多少ぶれ幅があっても、”正”の字と認識できる。ところが、上下その他の3本の水平線がそれぞれ平行でなく互い違いを向いていて、各々の垂線も平行を逸して互い違いを向いた場合どうなるか?65度や110度・・・とそれぞれ別々に、ぶれ幅があまりに大きくなると、構築性が崩れ、正の字と認識できなくなるであろう。

 

格子模様は大体において画面の再帰図形であるような時、各辺が画面の枠と平行で、画面の広さを規定するインターバルの線ともなっているので、平面の張力に関係しているのであろう。

 

ところが、最近のオリンピックのエンブレムの格子模様ともなれば、これはリングの表面にトポロジックに変形されているかのようである。だからこれは私の言っている格子模様の働きとしては、構築性が崩れていて、もはや画面に対しての張力を失った状態である。

 

白と黒を交互にまたぐ架空の直線、マッハバンドだとか、それに類するような効果によって、画面を分断する画面の枠と同じ長さの仮想の線、が格子模様には何本もあるかと思いますが、それが球面状に変形されているかのようなので、チカチカする効果が、すべて立体性に化けているかのようでもあります。あるいは放射状に広がるかのよう。

 

全体としては、突出して見える。突出して見えれば、画面上では、これは図として認識されるので、周囲から顕著に浮かび上がります。絵画では、この状態は、構成が優れていないのなら、好まれない。さっそく、この飛び出した図として認識されるものを同一平面上の事態として認識されるように、周囲の平面上の色を溶け込ませたりします。こうしないと、具象絵画のモチーフであれば、同じ空間に存在して、同じ空間色を反映して見えないからです。印象派の絵で言えば、周囲が青い環境なら、モチーフにも青い光線が反射していないとおかしい。平面の構成であってもこの原理は有効で、絵画は図と地が交互に延々と続くゲームでもあるので、図と地の融合や乖離の原理として抽象化される。プッシュ・アンド・プル・セオリーなどでは要素の前後への突出などを直接操作するので、この原理を知らないとたぶん構成できないと思うのですよ。

 

エンブレムとしては面白いかもしれないが、しかし、イタリア人のブォーノのサインの悪いジョークを知っている私は、何ともガッカリです(泣)。

 

他にも、最近の松本零士先生の”4市「鎮守府」シンボル”などもなんだか最初は気になりますね。薄紫と言うか暮れた感じの色の。中心性が顕著に過ぎて驚きます。赤と青に見えてしまうような最大コントラストが中心にあるので。現代は、これくらいぶっ飛んだことをしないと成立しないくらい、デザインが無いのですね。別段、青と黄のだと何も思わないと言うか、むしろ良いと思うのだけど。

 

昔、レボトミンというキツイ薬を処方されて、その後リスパダールと副作用止めによる副作用で(副作用止め自体が毒)、喋れなくなっていた頃、絵も描けなくなるくらい、空間の見立てをする能力が阻害されて、おまけに複数のタスクを同時にこなす手先の能力も阻害されてしまったので、最悪に表面的な塗りのイラストを松本零士大先生の審査するはがきイラスト・コンテストで小学生に混じって入賞させてもらった記憶があります。確かその時はフェイマス・イラスト・スクールズのはがきイラスト・コンテストにも応募していて、そちらは、空間の見立てが苦手になっていたし、固く括った輪郭線だったし、良くなかったのだろう。落選した。

 

もう、塗り重ねる方法を忘れてしまって記憶も神経遮断薬の思考途絶で描き方がその時は戻ってこなかったのだね。

 

いや、精神科の薬は絵が描けなくなるのは本当なんですよ。その点ではましなエビリファイ押しだったんだが、いまやチップ入りも出てきているので、お勧め出来なくなりつつあるね。いやぁ、あの時のは悔しいが、しかし、何かの本作のミニチュアとか冗談のつもりとして送ってしまった。まぁ、もっと普通の絵が描ける証明はファーストシーズンのブログで、多少なりとも成されていると思うので、あんまりこだわらないけど。その頃は、社会人大学に居たので、リベンジにまではこだわらなかった。それからも年に2、3回くらいしか描かなくなって、2009年に再燃したが、今は描かない。

 

安彦文平とか言う人が2004年前後にだったか統合失調症に絵を教えているとかニュースになった時は、何の嫌味かと悔しかったが、別に興味まではないね。精神病患者自体。たぶん、カルト教団の仕業でしょ。と、当時は思っていた。有名なデモンストレータとして若い頃から受験雑誌にもデッサンが掲載されたり、絵も素晴らしいし、ネットで見ているとすでに教授なんだろうが。俺が絵を描くのは神経遮断薬で邪魔して、他の統合失調症患者には描かせるってなんだろうなぁ?そいつらは色面は教えてもらったのかな?とか不思議だったのを覚えている(俺なんて行きたくも無い分野の大学に屁たらしてボッチで通う地獄なのによ、と思っていたね。本当に精神医療と戦いたくて勉強しに行った身としては、返り討ちにあっただけだった。それで逆上して拒否されない限りずっと4年間通い続けたよ。本当に私大の学生は判断能力が小学生並)。

 

専門学校のフランス風のデッサンを教えてくれた先生の描き方を知ると、少し、感傷的と言うか、表現効果が勝った感性的なデッサンだが、たぶん、絵描きとしては、こう言う方向性のほうが、断然、上だろうね。あのフランス風のでは、全部直線に還元するので、それでは、輪郭線として直線がくくられた時に、形としてはどういう効果が生まれるのか、まったく、考察が無いからね。単に入門者向けにバルールの話だけだから。

 

たぶん、絵がうまい人は、あのフランス風に近いことを別の講師から、それとなく学んでいるね。同じようなことも言うから。もっと先の問題を考えないと、あれでは、美大生の問題意識には、到底、追いつかないね。と、個人的には、もう、こだわってない。

 

 ※図と地が延々と続くゲームとは、地と図の集団を一つの地として(あるいは図的な構成要素の一個として)次の図を描き、それをまた地の集団として、次の図を描くというような、構成方法。弁証法的連鎖のような構成のことです。これだけでは、全部要素が強すぎてしまうので、他にも何か考えないと駄目だね(笑)。窓枠風の折り返しだとか。

 

 

※ 近年の第3世代だったかはドーパミン・アンタゴニストとか言いますが、やはりそれも神経遮断薬の一種だそうです。そもそも塩酸塩の入っているものなら、オロナイン軟膏ですら半年も頭に塗っていると、だんだん、同じような食欲亢進やぼうっと感があるので、もともとドーパミンを遮断するだけで、副交感神経優位のセロトニン優位モード、すなわち治療モードに自動で移行するのが人類のようですよ。あんまり過信しても人によっては逆効果だと本気で思う。

 

 

小池百合子都知事の背後にエンブレムあると、何か乳がんキャンペーンのようにも見えるね(笑)。

 

 追記1:すると、抽象絵画は、自然と言うよりも神経世界もしくは内部世界の探求に近いのか?そう言えば、セザンヌ自体、印刷の悪い図録で見ると、人物描写や人体そのものへの興味が希薄な画家なので、まるでその光のアラベスクが、”死体の木漏れ日(火)”です(笑)。だんだん、人類は、神経それ自体を弄んでいるのは確かのようだ。神経の働き自体が自立した様な効果を”平面の自立”として美術学校で学んでいたのだろうか?