のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

漢字についてのメモ3

何がナポリだクソ野郎!

 

とは、いつだったか民放で見たギャング映画のアメリカ黒人のセリフでした。

 

(現代の日本人はそう言う気概が無さ過ぎる。)

 

おそらくは、粒子と波の両義性に弱い神のロボット・ランドこそが、近代国家の本質です。

 

和魂洋才の和の伝統、共産主義における原始共産体制、あるいは一神教における神の楽園、何でも良い。懐古趣味、復古主義。こう言うのが神のロボットの両義性の一角なのです。

 

そう言う視点に立つ私には・・・伝統と現代の両立と、そこからの転落。この構図で、ギンメッキゴミ蜘蛛を作り出すのが、アジアの近代国家に見えるのです。

 

(ことによると、時にはレグホンレミング/これは伝説に過ぎないそうです/の集団自殺さえも起こります。)

 

とあるマーシャル・アーツ教室では、最初の一時間に、伝統の型をメインにトレーニングする。そして次の一時間には、現代のファイトスタイルで、実戦性の高い技を中心にトレーニングする。いつだって、伝統型が我々を導いてくれているのは確かだ、と感じられる充実した2時間だ。

 

ところが、組織が分裂の危機などに瀕すると、突然、上層部の指導方針が変わった、などと言い出して、あれほどまでに信頼の置けた伝統型が、さらっと改変されてしまう。

 

こうして、以前は、男性中心の技の体系であったものが、女性や子供の視点も取り入れた軟化した型などに変わってしまう。

 

・・・こうなると、一体、我々の信じていた伝統とはなんだったのか?と言う恐怖感に、にわかに苛まれるほどだ。

 

(つまり、足元の伝統すらも、暗中模索の現代の技の体系と同じくらい、もろくも崩れ去ってしまう。)

 

これと同じことが、美術でも度々起こる。ある美術系はフランス風の理詰めのデッサンで、書道すらも分析できることを学ぶ。絵を描くという行為が、人類に普遍的に認められる行為であると、客観性に重きを置いて学ぶ。

 

ところが、だんだん学びが進んで行くと、他の講師や、レベルの高いOBなどは、あれじゃ駄目、だいたい日本の美術にあんな理屈っぽい感性が合う分けない、日本の文化はそんなものじゃない、と激しく息巻いているのを知ることになる。

 

そして、もし、自分のレベルが、大して美術について論じるのを認められる程でもないのなら、一生、心に傷跡を残して、美術の世界を後にすることになる。

 

あの時、客観性に重きを置いた、言って見れば、より科学的なデッサンの見方で、伝統文化が解明されたかのように、目の前がパーッと明るく開けたのは、一体、何だったのか?

 

(もし、あれが本当なら、このアジアの文化は、一体、何だと言うのか?)

 

・・・現代の美術の世界の方がはるかに凄い。ひょっとして、もう、昔のものにこだわる意味は無いのか?

 

(そしてそれが外圧の根源である西洋科学技術文明そのものなら?)

 

・・・一体、これは傀儡国家に過ぎないのか?

 

(そう言うオーバーな悩みも職業をすえて考えるとあり得るでしょう。)

 

 

 こう言う両義性、こう言う揺さぶりの果てのギンメッキゴミ蜘蛛化、シーツお化け化に、カルト教団は根付いている(笑)。巣食っている。

 

(ほどほどにしましょうね。)

 

 ※現代の日本人はそう言う気概が・・・と言うのも昔は良かった式の言説ですね。いやぁ、これは参った。