のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

統計の呪い

ウィキペディア

”自己同一性”

”同一性”

を眺める。

 

西田哲学に着想を得て、主語と述語の命題を例のごとく仮にシステムの作動状況として解釈すると、トートロジーアイデンティティーなのか?となります。

 

クレタ人がクレタ人を嘘つきと言った、と言うトートロジックな命題は、地理上で西のクレタ人が東のクレタ人を嘘つきと言った、と解することもできますが、むしろここは、現在のクレタ人が30秒前のクレタ人を嘘つきと言った、と言うことも考えられる。

 

養老 孟司の著作から類推するに、こうした恒真式も神経系の作動状況を反映した何かであろうから、当然のごとくに自己同一性保証に相同な働きもしくは投影像と解釈できなくもない?その仮定で話を進めると上記で、また、数論理ではあるが述語論理の完全性/不完全性が人格存在に関係しないか気になりだしました(笑)。

 

(記号世界においては、通常イメージは伴わないが、自己と同一化するべく感情移入することで、畳み込みが解けて、映像が動き出すのではないか?)

 

自己確認の反復曲線においては、鼓動もまた、一回打たれる度に血の巡りがパーッと目の前を明るくするでしょう。よくこれはリズムやビートに例えられますが、他にも何かあるかも知れない。

 

図と地でセットになって一つの世界を構成するのであり、色面では、例えばドスタールの縁取りなんでしょうね。要素が自立する条件として、色面の縁取りがある。アイロンプリントの具象モチーフ(キャラクター)も縁取りがあるから周囲から浮かんで目立つ(イリュージョンから表面の物質に近づいている)。

 

昭和の昔の向精神薬の製薬会社の広告には、ペインティング・ナイフの抽象画の写真のものがあるものね。長い間、患者を苦しめてきた世界のひとつが、こうして何でもない世界になりつつあります。

 

自己確認の一単位でもあるような図と地は生と死でもある様な時、魂を肯定すれば、これも粒子と波なのでしょう。