のんびりPC(第2幕)

真実は自分だけが知っている

斜め上を行く奴らとの決別

中学生の頃まで遡れば、誰しも、割り切れない数の抽象性について考えたことはあるでしょう。

 

絶対静止したゼロと違って、割り切れない数は、動的だ。

 

計算式は、左から右へ、順次、計算する。割り切れない数は、これを係数として式の外に出すことも出来る。こうして概念を単純化することで、動くものを一見するとまるで動かないもののように等式に収められる。

 

しかし、計算が続く限り式は動き続ける。

 

小学生の頃のテーマで言えば、純粋な線って存在するだろうか?と言うものもあるね。作図するような時の鉛筆の線は、常に太さが問題になるが、頭の中のイメージにそんなものは無い。イデアの世界はだから純粋で理想的なのだ。

 

こうして、皆、計算式が運動の記述に適していることを段々学んでいくのだろう。どうもその辺り、微分の式を習う辺りで、頭がおかしくなり始めたのが私です。

 

(今はネットがありますが、当時は適切な入門書がなかったのです。何とか、後年になって8ビットコンピュータの物理計算BASICプログラム集の解説文から理解しましたが・・・。)

 

もし、マイクロ波だの何だのの犯罪があったとすれば、電気回路は微分ができないと設計できないので、タッチさせたくなかったのだろうか?

 

近年もデスクワークにありついても、せいぜい、データ入力程度で、高卒以下でしたね。仕事にありつける時点で大卒的なのかも知れないけど。それも適齢期社会人で4年制普通大学じゃないし、専門分野外で今となっては興味もないし(※1)、雇用保険がついた仕事には就いたことがないです。

 

データなんてものはいくら蓄積してもそれだけじゃ意味がないよね(笑)。

 

統計だとか言えば、それは大事ですが、二十歳を過ぎると人間の脳は大体、暗記中心型じゃなくなって来るそうなので、そろそろ理屈を好むなんて言われています。

 

私から見れば、それはデータから抽出された関係記述式、つまり動くもの、原理的で動的な概念が無いとやってられないと言うことなんでしょうね。

(本当に理屈かな?)

 

動くものは魂が宿る。数式もそうした動くものの一種だと、この年齢になって改めて自覚しました。

 

観念の世界を、昔の芸大生は、観念的、観念的、と馬鹿にします。頭の中で自由な形を思い浮かべてごらん、大したバリエーションないでしょ、実際に見た方がいいでしょ、みたいに言います。

 

・・・うーむ。でも、例えば、頭の中の線は、何で果ても無く純粋に一定の線であり続けるのか?微分量と言うか、神経系の循環であって、動的サイクルなんじゃないのかな?

 

入力の無い神経は出力も限られているでしょう。バリエーション増幅のアルゴリズムも考案するべきだ。どうせ思い浮かべる時に眼を閉じてるんじゃないの(笑)?それとも眼球が左斜め上ですか(笑)?

 

突破口は常に蟻の一穴。つまり記号の連続から。イメージはそれらを集結した物。行き詰ったら、見ているだけではまったくもって駄目駄目。蟻の一穴作戦に戻らねば。そう言うのが人間だと思うけどね。つまり情報の交通渋滞を制御することこそ究極だ。いびられたら誰しも理屈っぽくなるものね。もっとも純粋で簡単な理屈こそ、戦争の最中でも無事だから兵器開発が出来るのじゃないかな?

 

私は、もう、15年来、書画骨董の類、美術の類は、あんまり興味ない人間です。まぁ、認知科学的な興味のみ。嫌味言われるから技法や原理の確認とかのためにいじるけど。

 

料理をする必要があるから、顔料なんて絶対に触りたくない。まぁ、動くものが大切だ。漢字の世界だの何だのに沈潜していられない。

 

※1

糖質にやらせたくないようです。ケツ好きだからケツの面倒を見ろというのは宗教だ。実際は無理だ。ストレスが大きすぎて拷問でしかない。それよりもケツ禁止の理由について教育をする地域や家庭に生まれたかった。